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要約筆記の勉強法について

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要約筆記の勉強法について

要約筆記の勉強法について、たまに訊かれます。
本質的な勉強方法があるのかどうかは、わかりません。
ないとは言えない気がしますが、確かにあるとも思えない部分もあります。
少なくとも、まだ未確立。
ですから、「こうすれば確実に書けるようになる」ということは言えないのですが、個々のテクニック部分については、理論的に解析できる部分も多く、個人のセンスもあまり関係ない。トレーニングによって誰でも習得できるものと考えています。
誰でも習得できるとは言うものの、ある程度の時間と努力は必要でしょう。
技術の意味について理解した上で、それが自然に使えるところまで慣らすための練習をする。個人差はありますが、全く練習せずに上手くなる人はいませんし、正しい練習をすれば誰でもそれなりに上達します。
どこまで上達するかについては、個人の生来の資質に影響される部分もあると思いますが、少なくとも今のところ、個人の資質の限界によって伸び悩んでいる方は見たことがありません。
まだまだ伸び代はあります。
「向いていないんじゃないか?」ということもよく訊かれますが、もう少し練習してみてから考えてもいいんじゃないかなと思ったりします。
きちんと練習をすれば、少なくとも、今書いている感覚とは随分違う感覚で書けるようになるでしょう。
向いてる向いてないは、そこまでいってから考えてもいいんじゃないかと。
騙されたと思って、とりあえず練習してみてほしいと思います。

トレーニング方法を紹介する前に、よく言われる練習法の内で、間違っている思うものについて、一言。
昔からある練習法で、[日本語の文章を読んで要約文を作る]というものがあります。
何らかの日本語の文章を用意し、20~30%の量の要約文を作るという練習。
要約筆記は20~30%の量しか書けないから、その量に合わせた要約をする…という発想なのですが、結論から言うと、これはやめたほうがいい。
下手をすると逆効果になります。

練習自体に意味がないとは言いません。
日本語を扱うトレーニングは、総合的な国語力の向上につながりますので、その意味で言えば悪くない。違う表現、違う語彙を考え、選択し、構築する練習が、要約筆記の力に通じるのも確かでしょう。
しかしながら敢えて「やめたほうがいい」と言う理由は、文書の要約と要約筆記を混同してしまうと要約筆記の本質的な上達は望めないからです。
この練習方法の問題点は、それらを混同している点にあります。
この手の練習法を推奨する方々は、大抵、ここらへんの区別ができていないのではないかなと思います。
せいぜい要素の抽出のバランスについて認識する程度に留まり、要約筆記と文書要約の思考機序の違いについては考慮していないように見受けられます。

“要約文”と“要約筆記文”は、別物です。
考え方も、思考の機序も、判断の基準も、評価の基準も別。
発想の違う頭の使い方を練習することは、時に逆効果を生みます。
少なくとも手書の要約筆記が、この練習で上手くなることは、まずないでしょう。
特に初歩の段階では、要約筆記的な頭を作る、判断力を固めるという段階の成長を阻害しかねません。
あまり言うと差しさわりがありそうなので、あくまで私見ですが…、と付記しておきますが、本当に、この手の練習を薦めているのを聞くと、やめてくれと思います。

この手の練習法を採用する場合、要約率をぐっと下げて、10%以下の文字数設定で文書要約の練習をするなら、それは効果があるかもしれません。
新聞のように、文章の段落ごとに小見出しをつけるという練習も良いかもしれない。
言うなれば、あらすじ化。
もちろん、要約筆記の思考機序とは、少し角度が異なってくるのですが、それはそれで効果的かと思います。どのぐらいのパーセンテージの幅に設定すると効果的かについては、今後検討したいところ。
いずれにせよ、文書要約と要約筆記は、くれぐれも混同しないでほしいと、ここに強調しておきます。
表面的には、どちらの発想で進めても問題がおこらないパターンのほうが多いのですが、いざという時の判断に大きな差異ができると思っています。


Last Update 2011-05-16 (月) 05:01:02

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