盲ろう者とは目と耳両方に障害のある人のことをいいます。
富山盲ろう者友の会では、盲ろう者とその支援者の交流・支援活動を行っています。

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かけはし19

本文開始

かけはし19

(2019年9月発行)

目次

会長挨拶

九曜 弘次郎 (全盲難聴)

設立記念大会

6月23日に開催しました、当会設立10周年記念大会には、多くの方においでいただきありがとうございました。無事に終えることができてほっとしています。
今回は、鳥取県盲ろう者支援センター事務局長の菅澤 則夫さんにおいでいただき、ご講演いただきました。現在、盲ろう者支援センターは、東京、兵庫、鳥取に設立されています(神奈川では9月末までに設立予定)。そのうち鳥取県は我が富山県より人口が少なく、また盲ろう者の数も少ない県です。盲ろう者は数が少ないからなかなか支援に結びつかない、といわれます。しかし、鳥取県のような盲ろう者の数が少ない地域でも、県の事業として盲ろう者の実態調査に取り組んだり、支援センターを設立したりしていることは、地方で活動している我々にとってお手本にすべきところが多いと感じました。
 今回の「かけはし」では、その講演の内容を掲載しております。当日参加できなかった方も是非お読みいただいて、今後の活動の参考にしていきましょう。

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第11回定期総会を開きました

6月23日(日)、ボルファートとやま瑪瑙の間で第11回定期総会を開催しました。
2018年度の活動報告、会計決算報告、2019年度活動計画(案)、会計予算(案)がすべて承認されました。
2019年度役員案も承認されました。九曜会長をはじめ役員の顔ぶれは2018年度と変わりません。
そのほか承認されたのは、次の議案です。

▽富山障連協(富山県障害者(児)団体連絡協議会)に加盟すること。
▽会則を改正し、第7条4を「総会は、正会員の2分の1以上の出席で成立し、委任状による出席も認める」とすること。

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設立10周年記念大会・祝賀会

設立記念大会式典

6月23日(日)は、総会に引き続き同じボルファートとやま瑪瑙の間で、「富山盲ろう者友の会設立10周年記念大会」と「祝賀会」を開催しました。
大会前半は記念式典です。友の会の活動に尽力されてこられた3人の会員に会長が感謝状を贈呈し、来賓の方々からお祝いのメッセージをいただきました。後半は記念講演会でした。

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表彰

会長が表彰状を手に、一人ひとりに感謝のことばを述べました。

「あなたは長年にわたり友の会の発展に尽力され、盲ろう者福祉向上におおいに寄与されました。その功績は非常に大きく、富山盲ろう者友の会の設立10周年記念大会開催にあたり、感謝の意を表します。 九曜 弘次郎」。

表彰状を受け取る小幡さん
表彰状を受け取る久保さん
表彰状を受け取る中村さん

小幡 由起美さん(写真左)
設立から2017年度まで副会長を務められました。

久保 誠人さん(写真中)
設立から2016年度まで事務局長や事務局を務められました。

中村 由美さん(写真右)
設立から2016年度まで会計を務めながら、友の会の運営全般に尽力されました。

表彰状授与の後、3人を代表して小幡さんが謝辞を述べました。

「みなさま、このように立派な表彰をいただき、ありがとうございます。これからも頑張りたいと思います」。

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お祝いのことば

ご来賓の方々より、お祝いのことばをいただきました。

来賓挨拶と聞く人々

▽富山県知事 石井 隆一さま 
(富山県厚生部 障害福祉課地域生活支援係長
砂山 晃さまによる代読)
▽社会福祉法人 全国盲ろう者協会理事長 真砂 靖さま
(事務局長 山下 正知さまによる代読)
▽社会福祉法人 富山県聴覚障害者協会理事長
 石倉 義則さま
▽富山県手話通訳問題研究会会長 新船 洋平さま

次の方からの祝辞については、友の会の役員が代読させていただきました。

▽全国盲ろう者団体連絡協議会会長 高橋 信行さま
▽社会福祉法人 富山県視覚障害者協会会長 塘添 誠次さま

(祝辞の内容は「富山盲ろう者友の会設立10周年記念大会資料」に掲載しています)

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講演『鳥取県における盲ろう者実態調査と盲ろう者支援センターの役割』

鳥取県盲ろう者支援センター

事務局長 菅澤 則夫氏

講演する菅澤さん

講師の菅澤 則夫さんは、1947年、札幌に生まれました。1991年、鳥取県米子市の手話サークルで盲ろう者と出会い、以後ずっと盲ろう者とともに活動をしてこられました。
この日は、鳥取盲ろう者友の会の発足、鳥取県が行った盲ろう者の実態調査、県が作った盲ろう者支援センターについて、講演をしていただきました。鳥取県の人口は56万。小さな県ですが、活発な盲ろう者の支援が行われています。
講演の内容について編集部でまとめたものを以下、掲載します。

1.鳥取盲ろう者友の会発足
2007年(平成19年)に設立準備会の初会合を開きました。30人くらい集まりました。そのうち盲ろう者は二人でした。2009年度からは、鳥取県が盲ろう者向け通訳・介助員派遣事業と養成事業とを始めました(ともに地域生活支援事業)。友の会がそれを受託しました。当初は、月に一度の交流会と、同じく月に一度の話し合いの会を開いていました。今は、県内3圏域で月に一度の交流会を開いています。

2.実態調査まで
●課題と体制強化
毎年10月頃に、友の会では県と意見交換会を開いています。派遣の利用実績をもとに予算を予測し、要望を出しています。
当時の友の会には事務所がありませんでした。私が自宅でコーディネイター業務をしていました。県の事業を受託することによる人件費は年に36万円でした。ひとつき3万円ほどにしかなりません。「この状態では、県の事業を実施する継続性が確保できない」と県に訴えました。県は2014年(平成26年)に体制強化と称して事業費を上げてくれました。養成講習会の時間数を84時間に増やし、派遣の単価を上げ、人件費がつきました。

●先進地視察
それでも依然として「盲ろう者のほりおこしが難しい」という課題が残りました。県に話したら、「では先進地を見に行こう」と言ってくれました。
2014年度に視察したのは次の場所です。

・広島盲ろう重複障害者アイラブ作業所
・視聴覚二重障害者福祉センターすまいる (大阪)
・手と手とハウス(大阪)
・東京盲ろう者支援センター
・地域活動支援センター夢ふうせん(兵庫・神戸)

視察後、県に、次のことが大事だと報告しました。

・事務所、相談窓口があること
・相談員がいること
・集まれる場があること
・盲ろう者を探し出す仕組みがあること

荒川区の事例についても報告しました。2010年(平成22年)、区役所の職員と友の会の通訳・介助員がいっしょに訪問に行ったそうです。訪問前、18人いた盲ろう者のうち派遣を利用していたのは1人でしたが、訪問することにより4人に増えたとのことです。行政としては、同じ行政がやったという話が参考になったのか、県はいろいろと考えてくれました。
県は県が持っている個人情報を、友の会に出すわけにはいきません。そこで、県として盲ろう者を探すことを決め、2015年(平成27年)、1年の予算を付けて実態調査をするための人を雇いました。通訳・介助員の資格を持つ人を対象に公募し、選ばれたのが世川 桃子です。世川は、盲ろう者支援コーディネイターという名称で調査に取り組むことになりました。

3.鳥取県の実態調査
●準備
4月、5月は準備の期間にあてられました。障害者手帳に視覚と聴覚、両方の記載がある人の名簿を作成します。名簿を整理して、対象を70人程に絞りました。その人たち全員にアンケートを郵送し、可能な場合は電話で状況を確認し、訪問の予約を取ります。
並行して市町村に、県が実態調査をすることを知らせます。
どこをどのように回るか年間計画を立てながら、訪問した後、実際なにができるか、支援内容を詰めていきました。
そして、6月から半年かけて、訪問活動を実施しました。

●調査結果
2016年(平成28年)1月末時点での結果は次の通りです。

調査済み42人
調査不要22人
今後の調査5人
合計69人

「調査不要」というのは、施設に入っている等のケースです。
調査前の時点で派遣を利用している人は7人でしたから、支援が行き届いていない盲ろう者が多数いることがわかりました。
すぐ友の会につながる人もいました。60代の女性の例ですが、20年くらい家から出たことがなかったそうです。しかし、調査後、すぐ外に出るようになってめざましく変化しました。手話と点字を覚えて友の会の交流会にどんどん参加するようになったのです。女性は、中学校の同窓会に通訳・介助員を連れて行きました。「ひさしぶり!」と言われたそうです。いっぺんに世界が広がったのです。
県としてもはっきり効果が出ることがわかりました。一方で、一回訪問しただけでは十分な支援につながらない人も多かったのです。県は「実態調査で終わってはいけない。相談員を置く支援センターを作らなければならない」と考えるようになりました。

4.鳥取県盲ろう者支援センター
●設置へ
盲ろう者支援センターを作る為に障害福祉課が作った、財政課や市町村に説明するための資料があります。それには、次のようなポイントが書かれています。

・盲ろう者の社会参加支援
・盲ろう者や家族が気軽に相談できる環境整備
・盲ろう者の居場所作り(生きがい、仲間作り、情報収集など)

センター設立は、すべての盲ろう者が社会から孤立せず、安心して暮らせる社会の実現をめざすものでした。
友の会としては集まれる場所がいいなと思い、民家を借りたかったのですが、県は認めてくれませんでした。事務機能が基本だとして県が確保したのは、米子駅の駅前通りの一角にあるビルの一室でした。
2016年(平成28年)、平井知事出席のもと、開所式が行われました。
事務机のほかに、細長い作業台が部屋のまんなかにあります。これを囲んで6人くらい話ができます。集まれる場所ではなくて事務所としての機能が中心ですが、こういう場所があるのとないのとではすごく違います。私の家で事務をやっていたときとは比べものになりません。

●職員と仕事
支援センターには次の職員がいます。

センター長1人(盲ろう者)
事務長兼派遣コーディネイター1人
事務員兼派遣コーディネイター1人
相談員2人
在宅事務員2人

このうち常勤は、事務長、事務員、相談員の計4人です。相談員は、センターが開所したときは一人でした。対象となる盲ろう者が50数人いるわけで、それを一人で回るのはたいへんだ、と言ったら、2017年度(平成29年度)から2年限定で、もう一人分の予算を付けてくれました。2019年度も予算がついたので、このまま行けるのではないかと期待しています。
センターでは次の仕事を、県の事業としてやっています。

・盲ろう者向け通訳・介助員派遣事業
・盲ろう者向け通訳・介助員養成事業養成講習会、レベルアップ講習会(現任研修)、講師学習会
・コミュニケーション訓練事業
・生活訓練事業
・相談支援事業

盲ろう者を見つけだしたときに、コミュニケーションが取れない場合があります。派遣を利用する前に、コミュニケーションを確立しないと行けません。そのため、手話、点字などを学習するのが、コミュニケーション訓練事業です。

●今後の課題
最後に課題についてお話しします。

講演する菅澤さんとスクリーン

鳥取県は東西に長い県です。東部、中部、西部に分かれています。盲ろう者支援センターがあるのは、西部の米子です。東部の鳥取市よりは、島根県の松江のほうが近い位置にあります。米子市から相談員が鳥取市まで出かけていくのは、大変です。センターが東部、中部、西部に一つずついる、と考えています。県の障害福祉課も一つずつ必要だということは認識しているのですが、財政的に簡単ではありません。
同様に、支援体制も不十分です。実態調査からすぐ友の会や派遣につながる人もいますが、そうでない人のほうが多いのです。コミュニケーションが難しい人の場合、相談員2人で月に1回行って話しておしまい、では足りません。ほかの支援、いろんな人の助け、ネットワークを作らないと支援が進められないのです。民生委員や社協の地域福祉員など、盲ろう者とかかわりのある人のところに情報を届けたい。その為に、今後、県と話し合いをしたいと思っています。
それから、実態調査も十分ではないと考えています。調査したのは、障害者手帳に聴覚と視覚のふたつが記載されている人だけです。手帳に記載されているのはどちらかひとつだけ、という人の中にも、生活しにくさを抱えている人や、高齢になって両方衰えてきている人はたくさんいる筈です。支援が届いていない人はもっとたくさんいるのです。
このほか、集まれる場所を作りたいなど課題はたくさんありますが、ひとつずつ解決していきたいと思っています。

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記念祝賀会

記念講演のあと17:00からは、ボルファートとやま翡翠の間で祝賀会を開催しました。会員のほか、石川の友の会や来賓の方など40人が参加しました。
これまでの友の会の歩みをスライドで紹介したり、思い出をスピーチで語ったりしながら、なごやかに友の会設立10周年を祝いました。

祝賀会後の記念写真

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10年をふりかえって

前号に引き続き、会員の寄稿をお届けします。友の会との出会いや友の会での活動などについて書いていただきました。

T. O.

小さいときから、本と植物がすきだった。理由は動かないからである。一度動いて視野から失うとどこにいったのかわからなくなった。
姉がピアノをやっていた。お流れで私も音楽をやっていた。レコードプレーヤーのスピーカーに耳をつけて音楽を聴いていた。中学では吹奏楽でテナーサックスを吹いていた。私には入部から疑問に思っていたことがあった。なぜチューバがあるのだろうと。チューバのような低い音がほとんど聞こえていなかったのである。私は補聴器をつけるまで、本当の意味での「音楽」を聴いてはいなかった。
小学校から近視が進み中学では0.1が裸眼では見えなくなったが、眼鏡をかけると一応正常に見えた。しかしなにか人とは見え方が違う違和感がずっとあった。
聴覚があまりよくないことが小学生のころに判明していたらしいが、全くそれ関連の教育は受けていなかった。
眼鏡を作った時も、補聴器をかけたときも「我が家には障害者はいない」と主張したい親の影響でトラブルがあった。それらの障害によっておこるトラブルも私の「精神的問題」「惰性・怠惰な性質」、はては、「(仕事をしたくないから)病気への逃亡」とまで第三者から言われるようになった。
20代で補聴器をつけてから時間がたち、目にも病気があることがわかった時も、私の周囲は「やる気があれば、工場に勤めることができる。病気は隠すものだ」と、この状態になってまでなお「正常」に固着する肉親や周囲に辟易し、高岡市役所社会福祉課にあった「富山盲ろう者友の会」のパンフレットを見つけて連絡をしたのが、私と「富山盲ろう者友の会」の縁の始まりであった。
この縁は私に大きな変化をもたらし、現在の私を作っている。何よりも、私が他の人より「聞こえない・見えない」点があることを前提に物事を考えられることができるようになったのが一番大きい。今でも、まだトラブルになることがあるが、以前よりも少なくなったことは「富山盲ろう者友の会」に関わったことが一番大きいと今は思っている。

中西 佳子

友の会設立10周年記念大会に参加して、今までの事が頭に浮かんで来ました。
14年前、東京で平成17年度盲ろう者向け通訳・介助員養成講習会を受けましたが、それまでは、盲ろう者がいるのは知っていましたが、こういう団体、組織があることは知りませんでした。当事者の講義などを聞いた時、すごく身にしみた事が忘れられませんでした。私も手話通訳者に助けられている立場だからこそ、自分にも出来ることがあればと思い、今に至っています。
レクリエーション部担当として皆さんと楽しく行事に参加させて頂いています。これからも当事者が本当に楽しめる行事をみんなで一緒に考えて行きたい。でも、ろうベースの当事者だけしか話せないです。覚えの悪い私にとっての課題です(笑)。九曜会長は、挨拶すると手話で挨拶して下さるので感動しました。私も時間がかかると思うけど、何とか指点字をマスターしたいと思っています。
私の同級生二人も、社会人になった後、盲ろう者になったと知りました。そして、会えた時、習った触手話で話せたので、とても喜んでもらえて本当に良かったと思いました。
現在の目標は、なかなか行けない全国盲ろう者大会に参加する事です。これからも仲良くさせて下さい。よろしくお願いします。

上澤 淳一

富山盲ろう者友の会との出会いは今から10年前の2009年くらいだったと記憶しています。設立記念大会は、京都から梅木さんがこられ講演されたと記憶しています。
私が「盲ろう」という言葉を聴いたのは友の会設立のさらに前のことでした。実はプライベートで九曜さんと東京に行ったとき、全国盲ろう者協会に九曜さんが用事があるようで、私もついて行きました。
当時は何のことか全然わからず、ただついて行っただけでした。

それから時間が経過して、富山にも盲ろう者友の会が設立されるという話を聞き、富山県聴覚障害者センターの存在も知りました。
そのあと、通訳・介助員養成講習会を受講させていただき、友の会にも入会させていただき、現在にいたっております。
入会のきっかけ、通訳・介助員養成講習会を受講したきっかけは、会長の九曜さんとは幼いころからの友人で、当時の盲学校でも寄宿舎も同じで、家もお互い近いという関係でお世話になっていました。パソコンなどもいろいろ教えていただいたりもしました。
それで九曜さんが会長ということで、ぜひ少しでもお役に立てればという思いがあり、入会させていただきました。
会の行事に参加した思い出ですが、レクリエーション部に入っていたころ1泊2日で立山駅近くのホテルで交流会をしたこと、クリスマス会でレストランで食事をして、センターでゲームなどで楽しんだことなどが思い出されます。
また、友の会の会員さんとの交流も楽しみでした。
これからの友の会に期待することですが、できれば盲ろう者の掘り起こしということで、もっと県内にこういう会があることを広くPRしていけたらと思うとともに、ほかの視覚障害者団体(Bitsとやま、富山三ツ星山の会)などとも連携して、さらに会が発展していったらよいなと願っています。
15年、20年と新たな友の会をみなさんで歩んでいけたらと思っています。

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ご冥福をお祈りします

8月13日、富山盲ろう者友の会の会員、米山 通子さんが亡くなられました。77歳でした。ご冥福をお祈りいたします。
告別式には九曜会長も出席し、次のようなお別れの言葉を述べました。

九曜 弘次郎

米山 通子さんは平成22年に、生まれ故郷の岩手県からご主人のふるさとの富山県に引っ越してこられました。翌年、富山盲ろう者友の会に入会されたことをきっかけに、知り合うことができました。
 通子さんはご高齢にもかかわらず大変勉強熱心な方で、点字を勉強されたり、さらにはパソコン操作にも取り組まれていました。また、文章がとてもお上手で、平成27年に開催された「第6回全国盲ろう者体験文コンクール」において入賞されるという、輝かしい功績を残されています。
 通子さんは、目と耳の両方に障害を持たれていましたので、人には言えないようなご苦労もあったのではないかと推察されます。それでも、さまざまなことに挑戦される通子さんのお姿は、私たちに勇気を与えてくださり、努力し続けることの大切さを示してくださいました。
 昨年までお宅にお邪魔させていただき、お会いしていましたが、今年に入ってから友の会にも顔を見せられなくなりましたので、どうされたのだろう?と案じていたところでした。このたび、このような形でお別れしなければならないことは、まことに残念でなりません。
 通子さん、長い人生、ほんとうにお疲れ様でした。どうか、安らかにお眠りください。ご冥福をお祈りいたします。

※ 米山 通子さんの体験文コンクール入選作品は、下記のページでご覧いただけます。
      『二人三脚で』 米山 通子(富山県)
      http://www.jdba.or.jp/taikenbun/6th.html#3rd-prize

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